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廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て (東直子) この短歌の、「来て」にいくところの転換の唐突さは何なんでしょう。 廃村の乾いた感じ、活字の固さ、桃の皮の柔らかさ、湿った感じ。 こんな感覚の流れになんとかついて行ったと思ったら、突然自分が登場人物になったような、置いていかれたような。 なんでもない日常の場面なのに、この不安感はなんなの? あまり親しくない人から、個人的な打ち明け話をされた時の「エッ?」ていう感じ。 三半規管を狂わされた感じ・・・。 「ふれれば」という言葉と、それ以降のひらがなの語感から、プライベートな感じと、身体感覚を呼び覚まされる。と思ったら、その前の「桃の皮」のところでその準備がされていたようで。 言葉の音感やイメージを感じていくと、 「来て」まで、なだれ落ちていく感じがだんだんでてきますね。 「廃村を」と「来て」が目立つが、両者をつなげる「ふれればにじみゆくばかり」のひらがな部分が、この歌の魅力であり、中心だと思う。 短歌の雑誌に、批評が載っていたので紹介します。 東直子の歌の秘密について、 「ひらがなをあたためてうまく使うと、体のどこかが治るという気さえしてくる。」 とありました。(盛田志保子、短歌ヴァーサス 第四号2004) この批評も、そのまま歌になるようですね。
by marin_tanka
| 2007-05-10 23:20
| 東直子
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